果実が腐るまで

大人になったフリ

やりたいことをやる

私が生きていく中で大切にしたいことのひとつに「後悔しない選択をする」があります。今までどんなことで後悔したか、思い返してみると後悔ランキング1位は「やりたいことをしなかった時」かなと思います。買って後悔するよりも大抵買わなかった後悔の方が大きいし、やって失敗するよりもやらずに何もしなかった時の方が自分を情けなく思います。

 

子どもの頃から注目を浴びたり人より目立つのが苦手でした。自分の感覚が他と違っている自覚はありましたが、それより少数派になって周りから浮くのが怖かった。人と違うと周りから変に思われるんだ、と感じた時からできる限り普通にしようと意識していました。親からも常識的に、普通にしなさいと言われて育ちました。色々なことに対して「普通とは?」と考える日々を過ごしました。

それでも考えても分からないことばかりで自分が思うように振舞ってしまう時もあり、学校のクラス内では目立っていたと思います。影でバカにされたり、死ねと書かれた紙が机に入っていたこともありました。誰かに失礼な態度を取ったり故意に傷付けるようなことはしていません。元々内向的な性格だったので、目立ちたくてやっていたのとも違います。やっぱり「普通」じゃない人は「普通」の人達から異物として排除されるんだと思いました。

 世間の人達が当たり前に使う「普通」が私には分からなくて、押し付けられるのが苦しくて、それでも私の頭の中の片隅では「普通」でいなくてはいけないという意識があって、長い間無理をしていました。

 

ついこの前、付き合っていた人に私のやっていること、価値観、人格を否定されました。悲しかったですが、私のことを否定するような人は私のこれからの人生には必要ないなと思いました。私はやりたいことをやっているだけなのに。それによって人を傷付けたり誰かに迷惑をかけたりしていないし、私のしていることを相手にやれと押し付けたり、理解しろとも要求していないのに。自分が被害を受けたり何か失うわけでもないのに。どうして人のことにそこまで干渉できるのか私には理解できなかったです。

私は相手の理解できない気持ちも尊重していきたい。しかし、理解できないからといってそのことを否定したり、理解できないことをしている人を傷付けていい権利が相手にあるとは思えません。普通じゃない、おかしいと様々な罵声を浴びせられても、自分はそんなこと言う立場にならなくて良かったとしか思いませんでした。

 

「普通」はそんなことしないからしている方がおかしいなんて、だから何なんだよと思います。結局「普通」なんてそれを振りかざす人の個人的な感覚に過ぎなくて、自分が言いたいことを都合よく「普通」として人に押し付けているだけだと思います。本来なら自分の意見として言えばいいのに、ぼんやりした「普通」を理由にするしかできないなんてどれだけ思考能力がないんだよと思います。

私が怯えていた「普通」は最初から存在していなかったことに気付きました。自分の要求を通したい人が「普通」を理由に私に押し付けていただけでした。

 

それなら私は普通じゃなくても平気。

人にどう思われるかなんて気にしないで、やりたいと思ったことを素直にやりたい。やりきって後悔ないと確信できる人生にしたい。